健康コラム COLUMN

【「気の病」に取り組んで】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP

2022年6月7日

こんにちは お元気ですか? 今年は長く桜を楽しめまし たね。

我が家では健の次女 が小学校へ入学、三女が幼 稚園に入園とおめでたいこと続きです。

 

二人とも、毎日元気 いっぱいご機嫌で通 っています。

前回でも書きましたが、私が最初に取り組み始めたの は「心の病」の中でも「自 律神経失調症」でした。

この病は、ドクターが最も苦手とし、病院に行ってもすっきりと治らない病気。

当時の私は

『学んでいた漢方ならなんとかなるのでは?』

という軽い気持ちでこの病に取り組み始めました。

今から思えば怖いもの知らずの若造でした。(活気溢れる若者の特権かもしれませんが )

 

私は漢方については、二十二歳でこの業界に入った時 からずっと、いろいろな先生について学んできました。

が、「気の病」については、 治療法について書いた書物 もなければ、もちろん、まわりに教えてくれる人も誰 もいませんでした。

誰もやっていないということは、全てを独学で勉強し  試さなければならないということです。

 

一から全て自 分で経験して学ぶしかあり ませんでした。ある意味、 お客さんが唯一の先生であ るということでもありまし た。

ところで、漢方ではまず、 患者さんの訴える症状と体質を見極めて処方を決めて いきます。

これに最も時間 がかかります。

 

自律神経失調症という「気の病」の特徴は、治療の過程で患者さんの訴える症状がコロコロと変わっていき ます。

これが厄介なところなんです。

例えば、最初相談に来られ た時の訴えは、頭重感・頭痛・ 肩こり・めまいだったのに、

治療していくうちにそれらの症状は軽くなったかと思ったら、次は胃が重く、下腹部の張りが気になり、 下痢と便秘を訴えるように なります。

 

その次は…と。

 

これらの症状にとらわれると、その症状に合わせて処方も変わっていきます。

次から次へと。これが自律 神経失調症を 治療する時に 悩まされる ところです。

 

ドクターをも悩ませ、迷わ せる。そればかりか問診に とても時間をとられてしま う。

現在の保険診療ではそ んなに時間は取れません。

 

今だからこのように全体像 を客観的に話せるのですが、当時(三十歳前)の私はまだまだ経験も浅く、患者さんの訴え る症状に振り回されていました。

 

どの処方が正解 なのか訳が分からなくなるのです。 こんなことが数年続きました。

うまくいきません。

失敗の連続です。

 

当時の患者さんには大変ご迷惑 をおかけしました。(大反省)

 

私が学んできた漢方では、この 病は治せないのかもしれない? そのうちストレスのあまりに私自身も自律神経失調症になった こともありました。

 

ところが… そんな時、私の考え方を根本から変えてしまう薬に出会います。

 

名薬「牛黄清心元」です。

 

今までの日本漢方の処方の中にはなく  「牛黄清心元に加えるべき生薬 は何ひとつなく、減じるべき生薬もない。これほど完成された 漢方処方は他にない!さすがに 王様のために作られた薬だ!」

 

と、日本を代表する 中医師の先生に言わしめるほどの漢方薬でした。

 

この薬は一般的には、

心臓の働きを調整したり、血の巡りを良くしたり、高血圧に伴う様々な 症状を緩和したりと、主には循環器系の症状に使います。

 

しかし実は日本の「気の薬」の 原点になる処方なのでした。

 

当時、このことに気づいていた 薬局の先生はあまりおらず、ほ とんどの人は循環器系の病気に使っているのが実状でした。

 

このことに気づいた私は、いろ いろな症状を訴える患者さんた ちにこの薬を使うようになりま した。

そしてその後もいろいろ  な試行錯誤の結果、 「気を作り気を巡らせることに    よって気の病はおのずから治る」 ということに気がつきます。

 

そして日本に現存している「気 の薬」を探し出してきて、片っ端から使うようになりました。

「感応丸氣」・「はらはら薬・翁丸」 などもその頃に見つけだした薬 です。「敬震丹」も最高の気の薬ですね。

 

これらを実際に患者さんに使っ てみると、その効き目の早さと 良さに驚かされます。

従来の漢方の処方薬とは全然違う!他人 や身内の人にすら気を遣う気配り体質の日本人のために、昔の日本人が作り出した和漢薬でした。

気という脳のエネルギーを大量に作り、  それを全身に巡らせ るという治療法、これを確立し たのは、気の病に取り組み始め て二十年近く経っていました。

 

今では健も自律神経の専門家になりました。そして私が四十年かけて見つけだしたやり方を受け継いでくれています。

 

さらにSNSを使って毎日発信 しています。

「もっとみんなに相談薬局の素晴らしさを知ってもらわんといかん!」と言いながら。

 

名薬も健も、見つけられるのをじっと待っている …(笑)

 

ヒロシでした。

【自律神経とHSPの専門家】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP

2022年4月19日

最近インターネットの世界で息子の健が「自律神経との専門家」として、いろいろと新しい情報を発信しているよ うです。ツイッター、インスタグラム、ティックトック、ボイシー、 オンラインセミナー などなど。実は私も家内も毎日楽しみに聞いていて、「けん先生」の隠れファンなんです(笑)。

 

健がボイシーのなかで、

「鈴木薬局は四十年近く自律神経失調症に取り組んでいて、この相談のお客さんがとても多いです。」と話していますがそれは本当のことで、私が約四十年前に始めたことです。

 

私が薬局を始めた昭和五十三年当時には、多くの薬局は「ひふ病」「痔」「アレルギー」「ぜんそく」などの看板を掲げていて、「心の病」(自律神経失調症・心身症・神経症など)を相談できる薬局は一件もありませんでした。

 

誰もやっていないということは、誰も先生や先人がいないということです。

 

全て独学で学び、薬やカウンセリング技術も自分で見つけ出さな くてはなりませんでした。  うまくいかない事のほうが多く、失敗の中からうまくいった事例を積み重ねていく事の繰り返しでした。

 

気の長い取り組みです。

 

一緒に取り組んでいた他の地方の薬剤師たちもひとり減り、ふたり減りして、結局は私ひとりになりました。  今から思うに、労力のわりに報われないことや、ストレスが大きすぎて自分の体調を崩してしまうということが原因で、「自律神経失調症」の看板を下ろす仲間が多かったのです。

 

私も一時期、ストレスで体調を崩し一週間ほど店をしめたことがありました。

「仲間たちがみんなやめていく中で、裕先生はなぜ続けているのですか?」 と同業者から質問されることがよくあります。  私にもはっきりコレですという理由は言えませんが ひとつは、 この自律神経失調症という病気は、医者が大の苦手とする病だということ。治せないんです。

 

意外でしょう!

ですから当店に相談に来られるんです。困っている人に頼りにされるとなんとかしてあげないといけませんもんね。

 

もうひとつは、自律神経失調症になる方の「気質」が、私自身の「気質」と合ったのだと思います。  その「気質」というのが、今、インターネット上でよく言われている

「HSP気質」Highly Sensitive Person(ハイリー・センシティブ・パーソン)です。

生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質をもった人」という意味なんですが、これは最近の言葉で、昭和の頃には「神経質気質」と呼ばれていました。

 

今から思うに、長年の経験から私はこのHSP気質の方が、いろんなストレスによって自律神経失調症になるメカニズムを理解し、治療するコツを掴んだのだと思います。

大学卒業後、福岡で漢方療法を学んできた健も、気がつけば私のやり方を受け継ぎ同じ道を歩き始めています。 そして今では私以上に治療効果を上げています。

 

健には独自のカウンセリング技術があり、「けん先生と話すと心が軽くなる」と評判です。 ありがたいことです。  先日、ボイシーのなかでこんなことを話していました。 「『病気』の反対は『ごきげん』だと思います。

常にごきげんで 笑って毎日を過ごせればそれが一番の幸せだと思っています。」なるほどー〜ごきげんか! そう言えば、反抗期がまったくなくていつも笑っていた健の少年時代を思い出します。  今日も健の笑い声が店中に響いています。 皆様もどうぞごきげんよう!

 

実はHSP気質のヒロシでした

【失敗は大人になるための大切な準備運動】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP

2022年3月16日

70歳に手が届く歳 になりますと、未来 のことよりも過去のことを語るようにな るものですね。

(祖父も父もよく昔話を してくれました。) 今日はその昔話にお付き合いください。

私が小学生低学年の頃、街の商店街は活気に溢れ子供達の遊び場でもありました。

 

裕少年も一日分の小遣いの10円玉を握りしめて、友達と一緒に駄菓子屋に行くのが日課のようになっていました。

当時の駄菓子屋には何らかのくじ引きがあって、一等・二等・三等が当たるようになっていました。

(建前は)純真無垢な小学生達は、今度こそは!明日こそは!と毎日ハズレばかりを引いていました。

 

ところが ある日のこと。

駄菓子屋に行くと、客は珍しく私一人だけ。

そして、いつも引いているくじは当たりの一等・二等・三等が一個ずつ残っていて、くじは、あと三枚。

 

子ども心に「これって三枚引いたら全部当たり じゃ!ヤッタぞ!」 「おばちゃん、くじ 引くで!」

三枚全部買って引きました。

ワクワク…………ん? なぜか全部ハズレ。

 

「何で???どうして??」 そこへおばちゃん、 「裕ちゃん、残念じゃったな」 裏からハズレを三つ持って来てくれました。

気の弱い私はおばちゃんに 「何でなん?」 とも言えず、トボトボと家に帰ったのでした。

翌日、一等・二等・三等は何十円かで売られていました。

幼心に世の理不尽さを見せつけられた出来事でした。

 

「くじ引きの一等は最初から抜かれているものである」

「くじが終わったら当たり商品は高値で別売りするもの」

 

あの頃のおばちゃんの顔が思い出されます(笑)

 

そんな裕少年もたくましく成長して小学六年生になりました。

友達もたくさん増えて、友達と遊ぶことが人生のすべてみたいになります。

秋祭りには母、祖母、叔母さんたちに貰ったたくさんの小遣いを持って祭りに出かけます。

 

何を買おうかなぁ…友達と連れ立って露店を見て回ります。

その時、子供達の人だかりができている店を見つけました。知った顔もたくさんいます。

テキ屋のおじさんの太い声。

「ボク、残念だったなぁ。もうちょっとだったのになぁ。次は当てよな!当たったらこの中からおもちゃでも プラモデルでも 好きなの持って 帰ってええからの!」

おじさんの後ろには当時流行のおもちゃや高価なプラモデルが山のように積み上げられています。

 

「じゃあ今度は予行練習するで。行くよーホイホイホイホイ。さぁーどうじゃー!どこに当たりがあるかなーそこのボク! どれだと思う?言うてみー!」

「これじゃー絶対!」 私と同じくらいの年の男の子が叫びます。

「おお、これじゃな?これで、ええんじゃな?」

おじさんが掌の中の小さな包みを開けると、中から赤い紙が出て来ました。

 

 

「当たりじゃ!ボクすごいなーお金出しとけば、好きな賞品、貰えたのになあー残念じゃったのー次はお金かけてみるか!」

 

これは、三枚の切手くらいの小さな包みの中の、どれに赤い紙が包まれているのかを当てる、単純なゲームです。

 

おじさんが小さな台の上でその三個の小さな包みを、両手で右へ左へと素早く入れ替えて、どれがどれだかわからないようにします。

「ホイホイホイホイ。さぁーどうじゃー!」

これは面白そうです。

 

おじさんの手元をよく見てれば絶対間違えない自信がある!小遣いもたっぷりあるし、私も参加することにしました。

ところが、私の目には絶対これだ!と思えるのですが、いざ開けてみるとハズレ! 気がつくとこのゲームにのめり込んでいました。

友達の忠告も耳に入らず、気がつくとあれだけ持っていた小遣いも全部なくなっていました。

挙句の果てには友達にも参加するよう勧める始末。

すっからかんになった 私は、母にも祖母や叔 母さんにも言えずなん とも情けない後味の悪 い秋祭りとなりました。

 

中学生になって初めて、 あの時のテキ屋のおじさんがやっていたゲー ムは、マジックであり、 子供達を騙す手口だったことがわかりました。

博打は恐ろしい! 絶対に勝てんようにできてる! 駄菓子屋のおばちゃんより怖い!

 

 

子ども心に恐怖を感じたのを覚えています。ある意味、世の中の理不尽さを教えてくれた先生だったとも言えるかも。

大人になってから友達や先輩に誘われ、お付き合いで麻雀、パチンコ、競馬、宝くじなどやりましたがのめり込むことは決してありませんでした。

子どもの頃のあの出来事がストッパーになって。

この頃、自分の人生を振り返ることが多くなりました。

いろんなことを経験しましたが、子どもの頃の失敗は大人になるための大切な準備運動だったんだなあと思うのでした。

 

今でも全くクジ運のないヒロシでした