【私の薬屋人生のターニングポイント②】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP
2024年12月23日
次回の続きです。
お待たせしました。
あれから明石のおばさんの身に起こったことをお話ししましょう。
小さなアパート暮らしから始まった慎ましい都会の生活の中で、おばさんたち一家は、新設された県営住宅の抽選に当たり以前に比べて広くて快適
な住居に住めることになりました。子供も女の子と男の子のふたり授かりました。
でも依然として自律神経失調症に悩まされていました田舎の母親(私の祖母)も相変わらずおばさんの所に通っていました。
ところが、数年が経ったある日の事です。
いつもトイレの長かったおじさんが、その日はなかなかトイレから出てきません。
心配になったおばさんが様子を見に行くと、おじさんはトイレで倒れていたのです。(大量の下血による貧血)
救急車で運ばれた病院で告げられた病名は
「末期の直腸がん」。
しかももう既に脳にも転移していました。
そして・・・
おばさんはあっという間に未亡人になってしまったのです。
当時、長女が中三、長男が小六でした。
当時のことをおばさんは
「何がなんだか訳がわからない精神状態だったけど、なんとしても子供たちだけは一人前にしなければ!という強い想いが湧いてきたのだけは覚えてるよ」
と話します。
その時おばさんは四十二才でした。
三人が生きていくためにはとにかく仕事をみつけなければなりません。
料理店の仲居やスナックの手伝いなど、いろんな仕事をしたそうです。そして少し落ち着いたころ、友人の紹介である会社の事務員として就職することができました。
とにかく当時は
「今を生きる」
ということの連続だったそうです。
そして気が付くと・・・
あれほど悩んでいた自律神経失調の症状はまったくなくなっていました。
自分の身体のことを悩むヒマがないこと、自分がしっかりしなければ子供たちが路頭に迷う!という強い想いと切羽詰まった経済状況が結果的に「病」を吹っ飛ばしてしまったのです。
その後三年間、事務員としてその会社で働き、介護の専門学校に入学するために退職します。
もっと専門的な技術を身に付けるためでした。
そして専門学校を卒業後、大手の老人介護施設に就職します。
おばさんは、まるで水を得た魚のように生き生きと働くようになりました。
意外なことに、若いころ身に付けた日本舞踊がとても役に立ったといいます。まさしく「芸は身を助ける」です。
がむしゃらに人の為に働く女性って輝いて見えるのでしょうね。
もともと美人で明るい性格のおばさんでしたから、最初にお世話になった会社の工場長(六歳年下の独身)に猛アタックされ再婚することになりました。
その方はとても人望のある方で、その後その会社の社長になりました。
今ではおばさんは何不自由なく幸せに暮らしています。
私は、長年おばさんを見ていて気付いたことがあります。
「人は自分の事よりも人の為に一生懸命になったときに、初めて我を忘れることができる。そして我を忘れることができた時に自分の病のことも忘れることができ、病は快方へと向かう」と。
昨年、大みそかに九三才で天寿を全うした母の四十九日の時に、叔母さんはしみじみとこんな話をしてくれました。
「私は遠くに嫁いで、そこでいろんなことがあった。でもつらい時や苦しい時には自分には頼りになる実家があるということが、どれほど心強かったことか!裕のお父ちゃんにはずいぶんと助けてもらった。 裕のお父ちゃんは鈴木家の要(かなめ)。
扇子の要がしっかりしていれば扇子はバラバラにはならん。どんなに遠く離れていても家族の絆がしっかりしていれば最後のところで踏ん張れる。
私は今でも鈴木家の一員だと思っているよ。お父ちゃんには本当に感謝している。
でもなあ・・・
私が一番感謝しているのは、あんたのお母ちゃんよ!
清子姉ちゃんは本当にスゴイ人だった!
なかなか清子姉ちゃんみたいにはできるもんじゃない。
本当に有難うございました」と言いたい。
苦難を乗り越えてきた叔母さんの言葉は、母への感謝の気もちが溢れていました.
次期・鈴木家の要になれるよう修行中のヒロシでした。